2016年 12月 27日
錦織圭の軌跡
|
錦織圭さんのメモ!
下記・記事の出典は、内田暁さんです。
ネット上のコラムを参照
内田さんの、圭さんをやさしく見守る姿勢が素晴らしい!!
他にも多く応援サイトが有って流石世界の「錦織」だと思います。
”” 錦織(にしこり)圭選手が躍動した。13歳で単身米国に渡って10年超。全米オープン男子シングルスの決勝の舞台で、敗れはしたが、天才少年が超一流のアスリートに成長したことを、世界中に示した。彼の才能に誰が、いつ気づいたのか。それは、どのように育てられ、伸ばされてきたのか。
生まれたのは島根県松江市。父の清志さんは森林土木関係の技術者、母はピアノ講師。大学時代、テニス同好会に所属していた清志さんが軽い気持ちで贈ったおもちゃのラケットで遊び始めたのが5歳。ほどなく市内の「グリーンテニススクール」に通い始めると、コーチの柏井正樹さんはその非凡さに目をみはったという。
「まだ体も小さく、体力もなかったが、『もう少し長く』『ちょっと高く』『もっと低く』などと、ボールの軌道に対して指示を出すと、すぐにそのとおりの表現ができた。ボールコントロールが抜群でこれはすごいな、と」
幼いながらに、気持ちの切り替えのうまさも際立っていた。
「圭はスイッチを持っているんです。コートの外では本当に穏やかで優しい子。それが試合になり、『絶対に勝つぞ』というスイッチが入ると、ものすごい集中力と負けん気が顔を出す」
負けず嫌いは、テニス以外でも健在で、例えばテレビゲームでは勝つまでやりたがった。才能と勝利へのこだわりが上手に噛み合い、島根はもちろん、国内でも知られる存在となっていったという。
2001年、小学6年のときには全国選抜ジュニア選手権、全国小学生選手権、全日本ジュニア(12歳以下)で優勝。史上5人目となる全国3冠を達成した。当時、錦織選手とダブルスを組んでいた松江市北消防署の的野貴介さんは、「当時から別格だった。スイングスピードも速くてショットが正確。試合ではいつもミスをする僕に淡々と付き合ってくれたという感じ。大人でしたね」
家族も柏井さんも、錦織選手を試合以外でも積極的に外へ出した。松岡修造さんが主宰する合宿「修造チャレンジ」に参加すると高校生に勝った。海外遠征の話があれば行かせた。錦織選手が中学生になったころ、女子テニスの第一人者として活躍した杉山愛さんの母、芙沙子さんは、清志さんにこんな言葉をかけている。
「この子には、大きな器を用意してあげてください」
杉山さんが言う。
「才能がずば抜けていることは母を含め、誰もが認めていた。ご両親はどう育てようか、迷っておられたと思うので、背中を押す一言になったのではないでしょうか」
そして錦織選手はソニー創業者の実弟で、元副社長の盛田正明さんが私財を投じて創立したテニスファンドの選抜審査を受け、強化選手に選ばれる。金銭的な援助を受け、米フロリダ州のテニスアカデミーへの留学が決まった。中学2年生、13歳のときだ。このときのことを清志さんはAERAの取材に、こう答えている。
「義務教育の途中でっていう不安はありました。でも、(中略)中卒だっていいと思ったし、リスクもある一方でテニスでトップになるには大チャンスだと思いました」
長男の才能を誰よりも信じ、全力で応援していたことがよくわかる言葉だ。さらに、どんどん外へ出ることが「当たり前」になっていたせいか、コーチの柏井さんも、
「留学も、今生の別れという感じはなかった。大学生が地元を離れて東京の大学へ行く感覚でしょうか。楽しんでこいよと、明るく送り出しました」
テニスファンドの強化選手として米留学をしたのは錦織選手含め、これまでに17人いる。留学後は毎年、ランキング目標を達成できなければ、支援を打ち切るという厳しい条件がつく。プロになるまで支援が続いたのは、錦織選手ら2人だけだ。
語学の壁、厳しいトレーニング、トップレベルの選手たちとの競争……。そんななかで錦織選手が親しんだのは、「にんげんだもの」のフレーズでおなじみの詩人・相田みつをの詩である「一生燃焼 一生感動 一生不悟」。相田みつをの長男で相田みつを美術館(東京都千代田区)の館長・相田一人さんは、
「厳しい環境下で、日本語の力に励まされてきたのではないでしょうか」
前出の盛田さんも、
「それはそれは大変だったと思います。泣きたいこと、つらいことは、たくさんあったはず。けれど、圭は強くなりたいという執念を持ち続ける力があった。それも立派な才能です。マイペースで周囲に惑わされない性格もよかった」
海外で磨かれた錦織選手の才能。国内で進学していたら、ここまでは到達できなかったというのが大勢の見方だ。国体少年男子ダブルスで優勝している元衆院議員の杉村太蔵さんも、そんな一人。
「皆さんピンときてないかもしれませんが、今回の快挙はサッカーに例えると、W杯で日本がブラジルに勝ち、アルゼンチンに勝ち、決勝でドイツと戦ったようなもの。彼のような選手を育てるためには、やはり留学させるのが一番でしょう。
錦織選手のような存在がもたらす経済効果は大きい。スポンサー契約を結び、ロゴがテレビの大画面で大映しになったユニクロ。その宣伝効果は計り知れず、「歴史的偉業」として即日、1億円のボーナスを決定した。
身に着けていたグッズの売り上げも目覚ましく、各地のラケットショップでは、錦織選手が使用する米国製のウイルソンのラケットがほぼ完売状態。 試合中、錦織選手が左手に着けていた時計はタグ・ホイヤー製、錦織選手がデザイン監修をした第2弾の「アクアレーサー Air–K2 日本限定モデル」を発売したところ、国内窓口には問い合わせが殺到しているという。
錦織選手は、決勝後の会見で語っている。
「僕はもう、そんなに若くない。だから自分にもっとプレッシャーをかけないと」
超一流になるための道筋を示し、日本に活気を与えてくれたことに感謝しつつ、さらなる高みを目指したチャレンジを応援したい。””
内田さんのメモ
内田さんは、テニス雑誌「スマッシュ」などのメディアに執筆するフリーライター。現役当時の伊達公子に魅了され、テニスの世界へ。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、デルレイビーチ国際選手権での錦織圭の初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』
【虫眼鏡.net】さんより参照
男子テニスで世界ランク5位の錦織圭は公式アプリ「KEI NISHIKORI」を更新し、2017年シーズン前半のスケジュールを発表した。
今年2月のメンフィス・オープン(アメリカ/メンフィス、室内ハード、ATP250)で前人未到の4連覇を成し遂げた錦織だが、2017年は欠場。同時期のアルゼンチン・オープン(アルゼンチン/ブエノスアイレス、レッドクレー、ATP250)とリオ・オープン(ブラジル/ リオデジャネイロ、レッドクレー、ATP500)に出場する。
錦織の2017年シーズン前半スケジュールは以下の通り。
■ブリスベン国際(オーストラリア/ブリスベン、ハード、ATP250)
■全豪オープン(オーストラリア/メルボルン、ハード、グランドスラム)
■アルゼンチン・オープン(アルゼンチン/ブエノスアイレス、レッドクレー、ATP250)
■リオ・オープン(ブラジル/ リオデジャネイロ、レッドクレー、ATP500)
■BNPパリバ・オープン(アメリカ/インディアンウェルズ、ハード、ATP1000)
■マイアミ・オープン(アメリカ/マイアミ、ハード、ATP1000)
■バルセロナ・オープン(スペイン/バルセロナ、レッドクレー、ATP500)
■ムチュア・マドリッド・オープン(スペイン/マドリッド、レッドクレー、 ATP1000)
■BNLイタリア国際(イタリア/ローマ、レッドクレー、ATP1000)
■全仏オープン(フランス/パリ、レッドクレー、グランドスラム)
■ゲリー・ウェバー・オープン(ドイツ/ハーレ、芝、ATP500)
■ウィンブルドン(イギリス/ロンドン、芝、グランドスラム)
下記・記事の出典は、内田暁さんです。
ネット上のコラムを参照
内田さんの、圭さんをやさしく見守る姿勢が素晴らしい!!
他にも多く応援サイトが有って流石世界の「錦織」だと思います。
”” 錦織(にしこり)圭選手が躍動した。13歳で単身米国に渡って10年超。全米オープン男子シングルスの決勝の舞台で、敗れはしたが、天才少年が超一流のアスリートに成長したことを、世界中に示した。彼の才能に誰が、いつ気づいたのか。それは、どのように育てられ、伸ばされてきたのか。
生まれたのは島根県松江市。父の清志さんは森林土木関係の技術者、母はピアノ講師。大学時代、テニス同好会に所属していた清志さんが軽い気持ちで贈ったおもちゃのラケットで遊び始めたのが5歳。ほどなく市内の「グリーンテニススクール」に通い始めると、コーチの柏井正樹さんはその非凡さに目をみはったという。
「まだ体も小さく、体力もなかったが、『もう少し長く』『ちょっと高く』『もっと低く』などと、ボールの軌道に対して指示を出すと、すぐにそのとおりの表現ができた。ボールコントロールが抜群でこれはすごいな、と」
幼いながらに、気持ちの切り替えのうまさも際立っていた。
「圭はスイッチを持っているんです。コートの外では本当に穏やかで優しい子。それが試合になり、『絶対に勝つぞ』というスイッチが入ると、ものすごい集中力と負けん気が顔を出す」
負けず嫌いは、テニス以外でも健在で、例えばテレビゲームでは勝つまでやりたがった。才能と勝利へのこだわりが上手に噛み合い、島根はもちろん、国内でも知られる存在となっていったという。
2001年、小学6年のときには全国選抜ジュニア選手権、全国小学生選手権、全日本ジュニア(12歳以下)で優勝。史上5人目となる全国3冠を達成した。当時、錦織選手とダブルスを組んでいた松江市北消防署の的野貴介さんは、「当時から別格だった。スイングスピードも速くてショットが正確。試合ではいつもミスをする僕に淡々と付き合ってくれたという感じ。大人でしたね」
家族も柏井さんも、錦織選手を試合以外でも積極的に外へ出した。松岡修造さんが主宰する合宿「修造チャレンジ」に参加すると高校生に勝った。海外遠征の話があれば行かせた。錦織選手が中学生になったころ、女子テニスの第一人者として活躍した杉山愛さんの母、芙沙子さんは、清志さんにこんな言葉をかけている。
「この子には、大きな器を用意してあげてください」
杉山さんが言う。
「才能がずば抜けていることは母を含め、誰もが認めていた。ご両親はどう育てようか、迷っておられたと思うので、背中を押す一言になったのではないでしょうか」
そして錦織選手はソニー創業者の実弟で、元副社長の盛田正明さんが私財を投じて創立したテニスファンドの選抜審査を受け、強化選手に選ばれる。金銭的な援助を受け、米フロリダ州のテニスアカデミーへの留学が決まった。中学2年生、13歳のときだ。このときのことを清志さんはAERAの取材に、こう答えている。
「義務教育の途中でっていう不安はありました。でも、(中略)中卒だっていいと思ったし、リスクもある一方でテニスでトップになるには大チャンスだと思いました」
長男の才能を誰よりも信じ、全力で応援していたことがよくわかる言葉だ。さらに、どんどん外へ出ることが「当たり前」になっていたせいか、コーチの柏井さんも、
「留学も、今生の別れという感じはなかった。大学生が地元を離れて東京の大学へ行く感覚でしょうか。楽しんでこいよと、明るく送り出しました」
テニスファンドの強化選手として米留学をしたのは錦織選手含め、これまでに17人いる。留学後は毎年、ランキング目標を達成できなければ、支援を打ち切るという厳しい条件がつく。プロになるまで支援が続いたのは、錦織選手ら2人だけだ。
語学の壁、厳しいトレーニング、トップレベルの選手たちとの競争……。そんななかで錦織選手が親しんだのは、「にんげんだもの」のフレーズでおなじみの詩人・相田みつをの詩である「一生燃焼 一生感動 一生不悟」。相田みつをの長男で相田みつを美術館(東京都千代田区)の館長・相田一人さんは、
「厳しい環境下で、日本語の力に励まされてきたのではないでしょうか」
前出の盛田さんも、
「それはそれは大変だったと思います。泣きたいこと、つらいことは、たくさんあったはず。けれど、圭は強くなりたいという執念を持ち続ける力があった。それも立派な才能です。マイペースで周囲に惑わされない性格もよかった」
海外で磨かれた錦織選手の才能。国内で進学していたら、ここまでは到達できなかったというのが大勢の見方だ。国体少年男子ダブルスで優勝している元衆院議員の杉村太蔵さんも、そんな一人。
「皆さんピンときてないかもしれませんが、今回の快挙はサッカーに例えると、W杯で日本がブラジルに勝ち、アルゼンチンに勝ち、決勝でドイツと戦ったようなもの。彼のような選手を育てるためには、やはり留学させるのが一番でしょう。
錦織選手のような存在がもたらす経済効果は大きい。スポンサー契約を結び、ロゴがテレビの大画面で大映しになったユニクロ。その宣伝効果は計り知れず、「歴史的偉業」として即日、1億円のボーナスを決定した。
身に着けていたグッズの売り上げも目覚ましく、各地のラケットショップでは、錦織選手が使用する米国製のウイルソンのラケットがほぼ完売状態。 試合中、錦織選手が左手に着けていた時計はタグ・ホイヤー製、錦織選手がデザイン監修をした第2弾の「アクアレーサー Air–K2 日本限定モデル」を発売したところ、国内窓口には問い合わせが殺到しているという。
錦織選手は、決勝後の会見で語っている。
「僕はもう、そんなに若くない。だから自分にもっとプレッシャーをかけないと」
超一流になるための道筋を示し、日本に活気を与えてくれたことに感謝しつつ、さらなる高みを目指したチャレンジを応援したい。””
内田さんのメモ
内田さんは、テニス雑誌「スマッシュ」などのメディアに執筆するフリーライター。現役当時の伊達公子に魅了され、テニスの世界へ。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、デルレイビーチ国際選手権での錦織圭の初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』
【虫眼鏡.net】さんより参照
男子テニスで世界ランク5位の錦織圭は公式アプリ「KEI NISHIKORI」を更新し、2017年シーズン前半のスケジュールを発表した。
今年2月のメンフィス・オープン(アメリカ/メンフィス、室内ハード、ATP250)で前人未到の4連覇を成し遂げた錦織だが、2017年は欠場。同時期のアルゼンチン・オープン(アルゼンチン/ブエノスアイレス、レッドクレー、ATP250)とリオ・オープン(ブラジル/ リオデジャネイロ、レッドクレー、ATP500)に出場する。
錦織の2017年シーズン前半スケジュールは以下の通り。
■ブリスベン国際(オーストラリア/ブリスベン、ハード、ATP250)
■全豪オープン(オーストラリア/メルボルン、ハード、グランドスラム)
■アルゼンチン・オープン(アルゼンチン/ブエノスアイレス、レッドクレー、ATP250)
■リオ・オープン(ブラジル/ リオデジャネイロ、レッドクレー、ATP500)
■BNPパリバ・オープン(アメリカ/インディアンウェルズ、ハード、ATP1000)
■マイアミ・オープン(アメリカ/マイアミ、ハード、ATP1000)
■バルセロナ・オープン(スペイン/バルセロナ、レッドクレー、ATP500)
■ムチュア・マドリッド・オープン(スペイン/マドリッド、レッドクレー、 ATP1000)
■BNLイタリア国際(イタリア/ローマ、レッドクレー、ATP1000)
■全仏オープン(フランス/パリ、レッドクレー、グランドスラム)
■ゲリー・ウェバー・オープン(ドイツ/ハーレ、芝、ATP500)
■ウィンブルドン(イギリス/ロンドン、芝、グランドスラム)
TOPに戻る
by nendo_doll
| 2016-12-27 09:34
| テニス