2015年 12月 10日
マヨルカ島
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パルマ・デ・マヨルカ島にて ②
パルマ・デ・マヨルカ(パルマ)大聖堂に来ました。
全ゴシック大聖堂の中でも最大規模を誇るパルマ大聖堂!
マヨルカ島の歴史は古く、紀元前6000〜4000年頃には既にに人が定住していた。その後、紀元前100年頃にはローマの支配下となり、パルマ・デ・マヨルカの町が築かれるが、ビザンティン帝国の統治下には、北アフリカより北上してきたイスラム勢力の侵入を受け、ついに903年には、当時イベリア半島を支配していたイスラム王朝の範図に含まれることになる。
ただ、イスラム教徒による支配というのは、あくまでキリスト教徒からの視点によるもの、マヨルカ島の発展という意味では、イスラム教徒は大きく貢献したことになる。当時、北アフリカから中東一帯全てを領土としていたイスラム王朝であるアッバース朝の地中海貿易の中継拠点として、マヨルカ島は大いに栄え、多様な文化が入り込み、また、農業や手工業等も発展していく。
キリスト教徒がマヨルカ島の奪還を目指し1229年にイスラム教徒をマヨルカ島から駆逐する。アラゴン連合国はシチリア、イタリア南部、ギリシャの一部迄をも含む一大地中海国家にまで発展した。・・・クータンスさん フランス ~ゴシック大聖堂の国より
西正面 ①
建設が開始されたのは1229年、ハイメ一世がマヨルカ島奪還を記念し、建設を命じた。献堂式は1346年に行われるものの、その後も建設は進められ、完成に至ったのは1601年のことであった。
西正面 ②
全長121mと、大規模なゴシック大聖堂の中では特に目立った長さでは無いが、驚くべきは天井の高さで、何と44mもある。当時、これよりも高い天井を架けていたゴシック大聖堂は、ボーヴェ大聖堂(パリから北に77キロに有る。)だけだそうです。
西正面 ③ 見事な造形美!!
西正面 ④ 上の画像を拡大した。
大聖堂側面 ① 見上げました。
大聖堂側面 ② 海の方から見えるのがこの壁面です。
大聖堂側面 ③ 空に向かって聳えるゴシック建築の見事さです。
大聖堂側面 ④ 下の方が写せてないのが残念です。
壁面の装飾
大きな大砲も有りました。
中庭 (パティオ) ① 見上げれば 聖堂の塔も聳えて居ます。
中庭 (パティオ) ② 意外と庶民的な出来なのが面白い!
アーチ状に積まれた橋の構造にビックリ、こんなに薄い石製で丈夫?
観光馬車 ① 足音も楽しいのでつい写した。
観光馬車 ②
観光馬車 ③ 客待ち中?
観光馬車 ④ 色んな形が楽しい🎶
観光馬車 ⑤ 白くて素敵です。
珍しい花が~~ モモイロイペー?
アップに~名前が??
モモイロイペー? (コスタリカサンホセ) 写したものと同じかなあ~? ・・・ 以前パナマ運河の画像引用した。
パルマ・デ・マヨルカ(パルマ)大聖堂に来ました。
全ゴシック大聖堂の中でも最大規模を誇るパルマ大聖堂!
マヨルカ島の歴史は古く、紀元前6000〜4000年頃には既にに人が定住していた。その後、紀元前100年頃にはローマの支配下となり、パルマ・デ・マヨルカの町が築かれるが、ビザンティン帝国の統治下には、北アフリカより北上してきたイスラム勢力の侵入を受け、ついに903年には、当時イベリア半島を支配していたイスラム王朝の範図に含まれることになる。
ただ、イスラム教徒による支配というのは、あくまでキリスト教徒からの視点によるもの、マヨルカ島の発展という意味では、イスラム教徒は大きく貢献したことになる。当時、北アフリカから中東一帯全てを領土としていたイスラム王朝であるアッバース朝の地中海貿易の中継拠点として、マヨルカ島は大いに栄え、多様な文化が入り込み、また、農業や手工業等も発展していく。
キリスト教徒がマヨルカ島の奪還を目指し1229年にイスラム教徒をマヨルカ島から駆逐する。アラゴン連合国はシチリア、イタリア南部、ギリシャの一部迄をも含む一大地中海国家にまで発展した。・・・クータンスさん フランス ~ゴシック大聖堂の国より
建設が開始されたのは1229年、ハイメ一世がマヨルカ島奪還を記念し、建設を命じた。献堂式は1346年に行われるものの、その後も建設は進められ、完成に至ったのは1601年のことであった。
全長121mと、大規模なゴシック大聖堂の中では特に目立った長さでは無いが、驚くべきは天井の高さで、何と44mもある。当時、これよりも高い天井を架けていたゴシック大聖堂は、ボーヴェ大聖堂(パリから北に77キロに有る。)だけだそうです。
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by nendo_doll
| 2015-12-10 09:51
| パルマ・デ・マヨルカ島